2013年07月21日
新野辺の歴史
7/13付、神戸新聞に載っていたこの記事
「新野辺の歴史」という冊子が出来たというこの話題、どんな冊子なんだろうと思っていたら
”新野辺まちづくり協議会の会員”ということで、我が家にも一冊配られてきました
全87ページのこの冊子、昨日晩、今日の休日の時間で、一気に読んでしまいました
というのも、新野辺に生まれて、現在も新野辺に居住しており、商売もしている私にとっては、本当に興味深い、面白い内容だった
古代は海の中、そして砂地であり潮風の影響をうけ、塩害で農作物が育ちにくい新野辺の土地の農業の苦労
新野辺住吉神社、おして大庄屋大歳家の歴史や、新野辺に三つお寺があったということ、そして現在の鶴林寺浄心院とのご縁
五ヶ井水路と新野辺との関係、一番下流である新野辺は豊富な加古川の水が届かない時もあったらしく、そして用水のことで、長砂村と騒動になったこともあり、藩主に直訴し、新野辺の言い分が認められたということ
また、関ヶ原の合戦以降、池田輝政が姫路藩主となった時、姫路城の改築のために、農家の年貢が増税となり、その後も新野辺村は減税とならなかったという歴史
本当に新野辺の先人の方々は苦労されたんですね
本当に我が村、新野辺の歴史が、読みやすい文章で書いてありました
そして一番、面白かったのは、新野辺村が別府村新野辺となり、加古郡別府町新野辺が、加古川市と合併するまでの経緯
当時、3つの合併構想があったそうです
一つは、加古郡別府町、阿閇村、二見町が合併する東播臨海都市合併構想
二つめは、加古郡別府町、高砂町、尾上村、荒井村、印南郡伊保村との合併構想
三つめは、加古川市との合併構想
これら3つの案で別府町は意見が分裂し、当時住民投票もしたそうで、一度は加古川市との合併が否決されたものの、その後の町議会内での議論と決選投票の末、わずか86票の差で可決し、昭和26年10月1日に加古川市と合併したそうです
もし、この時、加古川市との合併が否決されていたら、別府町が現在、播磨町、稲美町と並ぶ加古郡となっていたわけで、そうしたら、兵庫県と加古川市が誘致した神戸製鋼所の工場が別府沖に出来なかったかも知れませんね
もうすぐこの地に生まれて半世紀を迎える私にとっては、我が村のルーツを知ることが出来、本当に感激した冊子でした
第2巻を期待したいですね